Kaneiji : 寛永寺

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寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。

江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。 現在の本堂は川越の喜多院本地堂を移築したものである。

近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。

・本堂(根本中堂)-東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。

・書院-本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている。(非公開)
旧本坊表門(重要文化財)(位置)-通称黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは、現在の東京国立博物館正門の位置にあった。
・清水観音堂(重要文化財)-上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにあり、千手観音を祀る。寛永8年(1631年)の建築。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造(かけづくり)建築である。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。

・弁天堂-上野公園南側にある不忍池(しのばずのいけ)の中之島に天海が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の弁才天を勧請して建立。島は常陸下館藩主水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。

・旧寛永寺五重塔(重要文化財)(位置)-寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総・古河城主 土井利勝によって再建された。塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寛永寺が東京都に寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。

・東照宮 -別項「上野東照宮」を参照。
・時の鐘 -上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。現在ある鐘は天明7年(1787年)の作。
・大仏山パゴダ -時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)の建立。もと上野東照宮本地堂(神仏分離の際に破壊)の本尊であった薬師三尊像(江戸時代初期)を祀る。
・上野大仏-寛永8年(1631年)、堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。以後、地震、火災等で消滅と再興を繰り返し、現在は顔の部分のみが大仏山パゴダ脇に保存されている。


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